猿島と その歴史

今、猿島はある意味横須賀のリゾートになったと思います。

バーベキューや海水浴のシーズンには多くの人が訪れます。

その昔、猿島は何だったとおもいますか?

行ったことのある人ならレンガのトンネルなどを見たと思いますが、

元々、明治時代あそこは海軍の要塞でした。

ペリー来航後日本は開国をしましたが、
アメリカの強引なやり方は、けっこう当時は脅威だったようです。
いきなり黒船から日本国民に砲撃したり大パニックだったようです。

その後、話し合いの末、日本は、開国をしました。
当時の日本の優秀な人材がアメリカに招かれて色々と学びました。

帰国後、日本とアメリカの文化や社会の差を知り
日本も近代化しなくてはならないと大きく動き出しました。

明治維新後、日本は一気に雰囲気が変わり海軍も発足しました。

ところが日本にとって仮想敵国が常にアメリカでした。

アメリカがいつ黒船で日本を攻めてくるかわからないと
日本を守る為に多くの砲台が設置されました。

そんな中、東京湾に浮かんでいた猿島は、良い位置にあったそうです。
即座に要塞としての建設が始まりました。

それと同時に観音崎にも要塞が作られました。

当時は、最新鋭の大砲が設置されていたようですが、
結局、東京湾にアメリカの艦隊が襲ってくることは無く
大砲は、使われることがありませんでした。
その後、要塞から危険な爆弾を保管する倉庫になった。

でも、昔から色々な噂がありました。

例えば猿島まで埋め立て工事が進むとか、

島は、カジノになるホテルリゾート建設が始まるとか色々ありました。

でも・・・あれから20年以上 何も変わってません。
海水浴に行けるようになったというくらいでしょうか?

確かにもったいないですよね!なんか、もっと活用する方法があると思う。

動物園になったら良いなと、子供の頃 私は、期待してましたあせあせ

でも実際あの島の所有者は東京都だと聞かされた時驚きました。

今でも、そうなのでしょうか?横須賀にあるのに横須賀のものじゃない?

これから稼ぎ時になると思うのですが、あのままが良いのでしょうかね?


そういえば、猿は、実際にいたのでしょうか??

噂では、いなかったらしいです。でも一説では猿をペットにしていた
兵隊が、いたからその名前になったとか・・・実際は、わかりません。

横須賀の名産に猿島まんじゅうが、あります。
その表紙を見たときに書かれていたのですが、
猿島には、当時 猿が多く暮らしていたそうです。
ところが猿は貝の角や やりでいつも怪我していて困っていた。
そんなある日、日蓮大聖人が千葉から船にのって
反対岸に来る途中 猿島に立ち寄って野宿をしたそうです。
困っている猿の姿をみて、祈って貝の角やとげを丸くしたと言われてます。

本当か、どうか、わかりませんが、立ち寄った事実は、あるようです。
そして、その迷信が、長年 語り継がれてきました。

三笠艦

日本のシンボル?横須賀のシンボル?今は、間違いなく横須賀のシンボル。

横須賀の観光名所と言えば、なんと言っても三笠艦が、有名。
テレビの特集でも、先ずは、三笠艦かドブイタが、紹介されます。

現在の三笠艦は、船体以外は、レプリカです。

でも、当時に近い状態で、綺麗に復元されました。

明治時代、すでに日本は、船を建造できる技術を身につけてました。

でも、その技術は、まだまだでした。

日清戦争後、日本海軍は、さらなる高性能の軍艦を求めて、
1898年にイギリスの造船会社に 船の建造を依頼しました。

船は、着々と完成し、名前は、三笠と名付けられました。

進水式を終えて、三笠は、日本に向い横須賀に到着。

舞鶴に籍を置き、訓練を重ねました。

その後、日本とロシアの関係が、悪化。

日清戦争で、見事に勝利した日本は、賠償金として、
中国の島や、炭鉱の利権を獲ましたが、それは、やり過ぎだと
他国に批判をあびて、しかたなく日本は、一部を中国に返還しました。
それをロシアが、日本から取り返してあげたのだから、
褒美に、炭鉱の利権をよこしなさいと、中国から奪いました。

それを知った日本は、無謀にも大国ロシアに殴りこみの戦争を開始

多くの兵隊をロシアに上陸させ、攻め入ったのです。

ところが、映画 二百三高地で、ご存知かと思いますが、
大群で、攻めてもロシアの最新鋭の機関銃で、あっという間に
日本兵が、次から次へと死んでいく。なかなか決着がつかない状況に
日本軍は、白旗寸前の状況でした。

そんな時に、日本の兵力増加、上陸を防ごうと
モスクワ海域にいた、ロシアの最新鋭の戦艦、バルチック艦隊が移動を開始
その情報をいち早くつかんだ日本は、
ロシア艦隊が、日本を攻めてくると、日本海域の監視を強化

何度か、誤報で、日本艦隊は、出撃を繰り返した。

いつくるのか、どこにいるのか、イライラする日が続きました。

ある時、大艦隊が、移動しているのを日本の漁師達が発見!

それを約2日かけて、電報が打てる場所に行って情報を伝えた。
その情報は、直ちに全日本艦隊に送信された。

完成から6年あまりで、三笠艦は、実戦で活躍

黄海開戦から 日本海戦で、三笠は、戦いました。

24隻いたバルチック艦隊は、次から次へと沈没

ロシア艦隊は、日本より、高性能で、数も圧倒的に多かったのに、
日本の作戦勝ちで、見事勝利したのです。

当時、三笠を指揮していたのが、東郷平八郎大将。
危険を承知で、船台に立ち、指揮を続けていた。
Z作戦と名付けられた戦法で、見事に勝利。
三笠が盾となり、後ろの味方の船体を守り、
ロシア艦隊に近づいたところで、船体をカーブさせ、
一気に日本の艦隊の向きを横向きにさせて、一斉に砲撃するという作戦。
さすがに この作戦で、ロシア艦隊は、白旗を上げた。

その後、この勝利をきっかけに 日本が、有利となりロシアが、降伏。
事実上、日本は、ロシアとの戦争に勝利したのでした。

だが・・・その後、三笠は、日本に戻り修理をおこないましたが、
船員の不始末によって、三笠は、大爆発!
原因は、船内で行われていた船員たちの酒盛りでした。
寒かったので、暖炉をとっていたようなのですが、
当時、日本軍が、使用していた火薬は、すごく敏感で発火しやすかった。
摩擦だけでも発火する恐ろしいものだった。
取り扱いには、気を使って、大砲を打つ時も内側に漆塗りして、
鉄に触れないように火薬を詰めていたそうです。

当時、酒は、まだ高価で なかなか手に入らなかったそうで、
船員達は、作業用のアルコールを薄めたり、砂糖を入れて飲んでいたそうです。
どうも、そのアルコールをこぼして、火が広がり、
火薬庫の周辺で、発火して、大爆発を起して沈没したようです。

実戦では、死者は、数十人だったのが、この事故で、数百人が、死亡した。

三笠艦は、そのまま沈没。 浅瀬だったので、一年後に引き上げられ
修理されましたが、もう旧型となり活躍の場を失ってました。

シベリアに派遣された後に任務を終えて、日本に帰還。

その後、ワシントン条約で、解体が、決まり横須賀に向かってました。

その時でした!三笠にとって 大きな 転機が・・・・

関東大震災が、発生し、輸送中だった三笠は、津波によって
今の場所に押し流されました。そのまま、そこで、座礁。

関東大震災のパニックで、三笠は、しばらく放置されていた。

解体寸前に、なんと、国民などから 是非 三笠を日本の誇りとして
保存してほしいという声が高まり、国会で、可決され、保存が、決まりました。

大正時代に三笠艦は、綺麗に修復され、現在の場所に国民の為に保存された。

ところが・・・第二次世界大戦後、アメリカが、三笠を調査。
これは、立派な武器だと 解体するように命令された。
敗戦した日本は、その指示に従い、三笠を解体してしまったのです。

その後、民間企業によって、元三笠の上には、ダンスホールや水族館が、
市民の為に 用意されましたが、 あまりにも無惨な姿でした。

写真2が、当時の様子です。

その後、横須賀米軍基地司令官にベントン デッカーさんが、就任。

横須賀に教育や医療の発展に大きく貢献しました。

その中で、三笠艦の復活の相談も受けていた デッカーさんは、
気持ちよく、市民の為に力を貸しました。

太平洋戦争で、戦った チェスター 二ミッツ氏は、
東郷平八郎大正のファンだった。日露戦争の小説を読んで勉強したと語った。
だから三笠艦の復元には、協力的だった。
デッカーさんに相談され、朝鮮戦争で、不要になった廃艦の船を
政府に相談し、三笠艦の修復に提供してくれたのでした。

その おかげで、三笠艦は、復活できました。

まさか、アメリカの船の部品が、使われているなんて、不思議な話。
でも、できる限り当時の物を復元させたようです。

三笠艦には、色々な歴史、多くの人たちの心が、生きているのです。

ただの船としてじゃなく、もっと三笠艦のことについて知って頂きたいです。

詳しくは、wikipediaなどで、ご覧くださいわーい(嬉しい顔)

ベントン デッカー司令官

これまで、横須賀の歴史について 色々と書きましたが、

その中で、忘れては、ならない人物が、おります。

それが、ベントン デッカー司令官です。
就任の頃は、少佐でしたが、最終的に、階級が、何であったか、不明なので
ここでは、デッカー司令官と呼ばせて頂きます。

日本海軍の基地だったベースは、後に米軍の基地と変わりました。

日本は、降伏し、戦争は、終結しました。
ですが、多くの日本国民が、不安を感じてました。
この先、日本は、どうなるのか?アメリカの奴隷になるのか?
アメリカに日本は、どう支配されるのか、恐怖に怯えていました。

そんな時に、横須賀に米軍が、上陸し基地は、米軍の手に渡りました。

無傷だった 戦艦、工場、武器、飛行機などは、アメリカに没収され、
すべて解体させられました。

無政府 状態だった日本は、アメリカによって 変えられました。

ちょっと前まで戦争をしていた敵国アメリカ。

連日のように空襲を繰り返した相手に、心を開くのは、複雑だった。

でも、日本は、戦争に負けてしまい、もう従うしかなかった。

誰もが、思ったそうです。
アメリカ人は、残酷で、日本国民を支配し、奴隷にするだろうと・・・
当時の日本では、奴隷になるくらいなら自決するように教育されていた。
女性も辱めをうけるくらいなら自ら命を絶つと考えていました。

ところが、以外にも米兵達は、日本国民に優しかった。

上陸と共に、戦災者達に、食糧や医療の準備をし、復興にも協力的だった。

子供たちは、米兵が、持っていたガムやチョコレートをねだり
いつの間にか、怖いというイメージだったアメリカが、
日本の一部のような存在に変わっていった。

横須賀の軍港が、米軍の基地になったことで、
日本国内でも、一番アメリカに縁のある街と変わりました。

日本政府とアメリカ政府のやりとりは、別とし

とにかく、横須賀に米軍の基地ができたということで、
なんとか、市民や国民の理解を深めようとアメリカも必死でした。

当然ながら、誰もが、賛成するわけでは ないからです。

ベース基地 司令官として ベントン デッカーズ司令官が、横須賀に就任
夫人も一緒に横須賀で暮らすことになりました。

デッカーズ夫妻は、とにかく横須賀の人々のことを考えました。

横須賀に何が必要で、どうするべきか、前向きに考えました。

民主主義にするべきだとか、赤十字病院を増やすことや
教育の場も増やすことに協力的でした。

夫妻の活動に多くの横須賀市民が、共感を抱き、
何かと、身近な問題なども相談するようになりました。

その後、三笠艦の 復活にも協力。

不安を感じていた多くの市民も安心して生活ができるようになった言います。

その後、横須賀の司令官は、度々変わってますが、

何といっても横須賀人に愛され親しまれた人物として

ベントン デッカーズ司令官は、横須賀の歴史から外せない人物となった。

その後、市役所前公園に デッカーズ司令官の銅像が完成

長年にわたって市民に親しまれました。

ところが!公園が大工事となって新しくなった後に
その銅像が、公園内から無くなっていた!

ある時に 気がついたのですが、上町の 中央公園に移動していたのです。

眺めの良いところにベントン デッカーズ司令官の銅像は、存在してました。

写真が、その銅像の写真です。

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