横須賀と異人の関係

横須賀と言えば、ペリー提督の話で有名ですね。

不思議と横須賀は、昔から異国人と縁がある。

ペリー到来の100年以上前に三浦安針さんが横須賀に住んでました。

詳しくはwikipediaで見て頂くとわかりますが、
イギリス人で日本に漂流しその後、徳川幕府の下で戦い

その名誉により当時の殿様に逸見一帯を授かれた。
イギリスから迎えがきても日本を離れず日本で亡くなった。

そのお墓が今でも安針塚にあり有名だと思うのですが、

なんと言ってもヴエルニーさんの存在も外せません。
写真はそのヴエルニーさんの家です。
今のショッパーズプラザとベースのゲートの間に昔、山があり
その上に当時ヴエルニーさんの家があったそうです。
臨海公園に2つの銅像があるのを見たことがあると思いますが、
その一つがヴェルニーさんです。

彼はフランス人で当時の幕府に依頼され造船場などの設計を頼まれて
どこが一番ふさわしいかと色々な場所を歩きまわり横須賀を選びました。

どうして横須賀だったのか?地形がフランスの母港ににていたかららしい。

東京湾のどこを見て歩いてもふさわしい場所がなく、
ある時、横須賀の地形をみてここなら津波の心配も無いし
山があるから崩してドックなども作れると選んだそうです。
その後の歩みを見ると判断は正しかったと思います。
関東大震災の時は津波の被害も少なく
太平洋戦争時は山が多くあったおかげで山に防空壕を掘ることができて
弾薬庫にできたり避難することもできた。

でも、その建設の依頼をした小栗さんは、もっと偉かった。
ペリー来航から10年後くらいに幕府はアメリカに招かれた。
その時に小栗さんはアメリカに渡り近代化社会を見せつけられた。

そして日本がどれだけ遅れているのかと思い知らされ
帰国後殿様にすべてを語り色々なものを建設することに
ところが当時の武士たちには、その重要性や必要性が理解できなかった。
幕府の莫大な予算を投じて作るものなのか?と小栗は批判された。

でも、明治維新後その必要性が高く評価された。

横須賀造船場こそが、日本の始まりで太平洋戦争の時のあるお偉いさんが、
小栗さんが日本にいなかったら、もし横須賀造船場がなかったら
日本は本当に時代遅れで戦争することすらできなかったと語った。

本当か、どうか知りませんが日本で一番トンネルが多い場所は、
横須賀らしいです。数えたことはありませんが、
そして、なんといってもそういう施設があったおかげで、
鉄道が横須賀まで延びました。
今は国民の為に鉄道はあるのですが、昔は輸送目的で作られ
軍の為に全力でレールがひかれたそうです。

元々、横須賀は小さな漁村で人口が少なかったそうです。
ですが造船場ができたことで多くの人が派遣されてきて
その後、海軍さんの街として横須賀は発展したのです。

横須賀 造船と軍港の歴史

横須賀が、日本全国で有名になったのは、

ペリーが浦賀沖に現れた時、

そして 慶応時代に完成した軍港からだと思います。

江戸幕府がフランス人ウェルニーに依頼し、

作られたフランス式の軍港。

でも、多くの役人に反対されながらも 

その必要性を強く主張したのが、小栗上野助さんでした。

小栗さんと言えばアメリカの船に乗って渡米し 

アメリカを見て回り世界一周して帰国した幕臣

世界を見て回った小栗は日本が時代に遅れていることを知り、

他国を脅威に感じたといいます。

日本の未来を考えれば、軍港は絶対必要だと国を守る上でも作るべきだと

フランスに大借金を負いながらも軍港を作らせた。

その後、明治維新により小栗さんもこの世を去りましたが完成した軍港は、

日本にとって重要なものとなり現在も利用されてます。

ある日本帝国海軍軍人が小栗上野之助に感謝するべきだ!

もし、この軍港が日本に無かったら日清、日ロ、太平洋戦争であそこまで

日本は、戦えなかっただろうと尊重の意思を示していた。

 

 

横須賀 米軍基地の始まり

1950年代のベースメインゲートの様子
1950年代のベースメインゲートの様子

1950年代頃のベースメインゲートの様子。

仕事を終えた米兵が、夕方ここからドブイタに流れでていた。

当時は、まだ車が少ない時代。

今は、交通量も増えて、周辺の雰囲気は、かなり変わった。

臨海公園の歴史

先日、偶然に見つけた貴重な写真。どうも葉書のようです。

臨海公園から見た、ベースの風景。

年代は、1950~65年頃だと思われます。

今は、すっかり綺麗に整備された公園ですが、

当時は、このような建物が存在していたようです。

一番下に見えるのは、現在も保存されている門です。

子供の頃、この周辺で よく釣りをしました。

建物の場所には、プールがあって夏休み通いました。

とても懐かしいです。

 

元EMクラブ

1950年頃の 本町周辺
1950年頃の 本町周辺

1950年初頭の本町周辺の写真。

懐かしのEMクラブが、右下に写ってます。

戦時中は、海軍将校、下士官などの休養所でした。

現在は、芸術劇場、プリンスホテルがあります。

左下には、工場があって上にカンドリークレーンが見えます。

この一帯は、現在マンション街になっております。

真ん中の通りは、16号線、その上には、猿島。

当時と今も変わらない光景。

 

ベース内から 正面ゲート16号線通りを写した貴重な写真。

年代は、1950年代頃だと思われます。

もう、すでにヨゼフ病院が鉄筋コンクリートで建ってます。

戦前、この写真を撮影した場所は、日本軍の鎮守府でした。

現在も明治時代に建設された建物は、残っており

米軍の本部として使われております。

戦時中、海軍大将 井上 成美さんが、

ここで勤めていたことで有名です。

山本 五十六 元帥の親友でした。

 

 

1960年代 初期のベース前の様子

まだ、老舗のハニービーのビルが建っていません。

今でも残っている建物が、あります。

戦前、どぶ板通りは、日本帝国海軍さん相手の商人が多かった。

海軍さんの制服の仕立て屋さんや、一般酒場、呉服店、家具屋が中心だった。

戦後は、日本の基地だった軍港が、アメリカ軍に渡り

米軍の基地となりました。それによって商店街もガラっと変わり

米兵相手のバーや お土産屋さんが増えました。正に異色の通りとなった。

ある意味、珍しい通りとなり、多くの人が、観光に訪れていたそうです。

写真は、米兵の制服の肩章や階級章、ワッペンを作って販売していた店。

後にスカジャンブームによって刺繍も専門とする店となった。

 

1960年代初期のベース前の様子。

まだ、ハニービーのビルが、建ってませんね。

今でも残っている建物が、あります。

ベースのゲートを出て すぐ右には、人力車が客待ちをしていた。

まだ、車が少なかった時代の写真です。

元海軍工廠のカンドリークレーン

今のショッパーズプラザが、ある周辺は

その昔ロープ工場だったそうです。

そして、造船上もあり多くの木造船が作られました。

木造から銅や鉄製と代わりドライドックが作られました。

それまでは木造船を地上で建造し完成後は人力で海面に着水させていた。

でも流石に銅や鉄製となると人力ではもう無理。

そこで、ドライドック内で建造し完成後に海水を流し込んで
浮かばせて海面に移動させました。

時代とともに建造する船は、どんどん大きくなり

そこで誕生したのがカンドリークレーンだった。

ちょうど今のショッパーズプラザのところにありました。

私の子供のころは、もう役目を果たして撤去されてました。

でも、そこでは多くの海軍の船が建造されたそうです。

有名なところで、天城、山城、陸奥、愛宕など。

戦後は、住友系造船場となり長い間横須賀の経済を支えてました。

私が中学生になったころ造船場は、無くなり空き地になっていた。
立ち入り禁止となっていましたが、無断で入り込み
ちょうどカンドリークレーンが、あった場所が、
プールみたいになっていて、そこで釣りを楽しんでました。わーい(嬉しい顔)
でも、そこは、意外と深くて 今 思えば、落ちていたら大変。

そういえば、夏休みの時期には、サーカスや
冬場には、スケートリンクとなったり、イベントで使われてましたね。

シブがき隊が、野外ライブに来たのを覚えてます。

その後、バブル期には、ショッパーズプラザの建設が、始まり
横須賀は、一気に雰囲気が 変わりました

写真は、その昔 今のショッパーズプラザの場所にあった
カンドリークレーンです。

元EMクラブの歴史

EMクラブは、現在のプリンスホテルと芸術劇場の場所に昔 ありました。
私の記憶では、1986年くらいには、閉鎖され、廃墟に。
そして1992年には、取り壊され 今ある建物の建設が始まってました。

大正時代には、EMクラブは、すでに完成していて

江戸時代の 周辺写真を見たことが あるのですが、

EMクラブが、あった場所は、その昔 田園でした。
その 大昔は、海だったと聞いたことがあります。

EMクラブは、軍国主義だった頃に 日本軍人の為の
慰安所、娯楽施設だったと聞きました。

戦後は、米兵の為の娯楽施設と代わり
ディスコやレストラン、お土産屋さん、映画館、コンサート、オペラが、
楽しめる 当時としては、最高の施設だったそうです。

昭和の音楽界で、名が知れた日本の有名人が
実は、下積み時代にここで、腕を磨いて成功したという話もあります。

私が、子供のころも、営業していましたが、暇そうでした。
よく勝手に入っていたのですが、いつも米兵のSPがニコニコ
見て見ぬふりして入れてくれましたわーい(嬉しい顔)
館内には、当時ゲームセンターがあって、そこに興味があるのだろうと
子供だから、入ることが許されていたようですあせあせ
本当は、関係者しか入れない場所でした。

入り口の すぐ左側には、今でいうコンビニみたいな店があって
たまに米兵が、チェリーコークやルートビアというドリンクをくれました。
とても懐かしいです。

母には、米軍の友達が いたもので、何度か、ここで
ステーキやピザをご馳走になったこともあります。

もう、その頃は、コンサートや映画が、公開されていた建物は、
老朽化が、進んでいて、閉鎖されてましたが、
その脇が、酒屋だったのを覚えてます。

まだ、アメリカの酒が、日本で手に入りづらく高級だった時代、
そこで売られていたアメリカの酒は、大人にとっては、魅力的だったようです。
母は、決まって 米兵から おみやげに酒やタバコをもらっていた。

そういえば廃墟になったあとは、よく映画のロケで使われていた。
チェッカーズが、たんたんタヌキ?という映画で使ったようです。

写真は、大正時代に撮影されたものらしい。
広場になっている場所に現在のショッパーズプラザが、あります。
大きな通りは16号線。時代を感じますねわーい(嬉しい顔)

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